鍼灸師のための内臓解剖学①:胸腹部の臓器配置と腹膜構造 ― 安全な刺鍼のために「内側の地図」を描く

はじめに

鍼灸師にとって、筋肉や経穴の位置関係を把握することはもちろん重要ですが、
実際の臨床では「その下に何があるのか」を理解しているかどうかが、安全性を大きく左右します。

胸腹部の刺鍼では、呼吸運動に伴う横隔膜の可動性、腹壁の厚み、そして内臓の位置関係を誤解すると、思わぬ臓器損傷を招く危険があります。特に、鍼灸師が日常的に扱う中脘(CV12)・天枢(ST25)・期門(LR14)・巨闕(CV14)といった経穴は、いずれも臓器直上または近接部に位置します。

加えて、近年は施術の対象が多様化し、腹部の美容鍼、胃腸機能改善、冷え性対策などで腹部刺鍼の機会が増えています。その一方で、深刺や角度の誤りによる臓器損傷リスクも指摘されています。したがって、鍼灸師が安全かつ効果的に施術を行うには、臓器の位置と動き、膜構造の理解が必須です。本記事では、胸腔と腹腔を分ける「横隔膜」から始まり、臓器を包む「腹膜」の仕組み、主要臓器の位置関係を立体的に学びます。


1️⃣ 胸腹部を二つの空間として理解する

人体の体幹内部は、大きく 「胸腔(きょうくう)」と「腹腔(ふくくう)」 に分かれています。
これらを隔てているのが、呼吸の主役でもある 横隔膜(おうかくまく) です。

  • 胸腔:肺と心臓を収める空間。肋骨に囲まれ、陰圧で保たれる。
  • 腹腔:胃・肝臓・腸・脾臓・膵臓・腎臓などが納まる。陽圧空間で、腹圧が維持されている。

横隔膜は吸気で下降し、腹腔内圧を高めます。つまり、呼吸運動によって内臓全体が上下方向に動くのです。
鍼灸師は、横隔膜の可動性を理解することで、中脘・鳩尾・期門などの刺鍼深度をより安全に設定できます。


2️⃣ 腹膜とは何か ― 臓器を包む「滑る膜」

腹腔内臓器の多くは、「腹膜(peritoneum)」という薄い膜で覆われています。
腹膜は「臓側腹膜」と「壁側腹膜」に分かれ、その間に形成される空間を「腹膜腔」と呼びます。

● 壁側腹膜

腹壁や横隔膜、骨盤壁の内側を覆う。
→ 鍼で刺入する際、まず通過する「壁側層」でもある。

● 臓側腹膜

胃・腸・肝などの臓器表面を包む。
→ この層を介して臓器が滑らかに動く。

● 腹膜間の“反転”

壁側腹膜が臓器を包み込み、再び壁へ戻ることで「小網」「大網」「間膜」などの構造をつくる。
この反転のラインが、内臓の“吊り下げ構造”を形づくる重要ポイント。


3️⃣ 臓器の位置関係を立体的に把握する

臓器は平面的ではなく、前後・上下・左右に層を成して配置されています。
ここを「断面図のイメージ」で理解することが、鍼灸安全の第一歩です。

層構造主な臓器鍼灸臨床で注意すべき点
最前層腹直筋・腹横筋・腹膜前脂肪腹壁厚により刺鍼深度が変化する(肥満・瘦身で差大)
中層胃・肝・脾・小腸・結腸呼吸・食後で位置が変わるため、臨床時は体位と空腹時を確認
後層腎・膵・副腎・大動脈腰背部からの深刺に注意。腎兪・志室などの刺鍼深度管理が重要

4️⃣ 主要臓器の位置と深度感覚

● 胃

  • 左季肋下(みぞおち左側)にあり、肋骨弓に隠れるように存在。
  • 深刺で膵臓と接する可能性あり。
  • 経穴:中脘(CV12)、梁門(ST21)、不容(ST19)

● 肝臓

  • 右季肋部全体を覆う最大臓器。右横隔膜下に位置。
  • 刺鍼時は右上腹部で深度を制御。
  • 経穴:期門(LR14)、日月(GB24)

● 脾臓

  • 左後側に位置し、肋骨に守られる。
  • 左季肋下の刺鍼では、角度を内方にせず外斜刺が原則。
  • 経穴:脾兪(BL20)、章門(LR13)

● 腎臓

  • 第12胸椎〜第3腰椎の高さ。右腎はやや下位に位置。
  • 背部刺鍼(腎兪・志室)では刺入角度を浅く、外下方へ。

5️⃣ 鍼灸師が知っておくべき「安全刺鍼三原則」

(1)臓器の可動を想定する

呼吸・姿勢・食後状態で、臓器の高さは最大3〜5cm変化します。
→ 鍼は“臓器が動く空間”を避けること。

(2)腹壁の厚みを測る感覚を持つ

特に腹部は、筋肉・脂肪・腹膜前層の厚みが個人差大。
→ 指圧・把握で「抵抗の変化」を読むことが重要。

(3)刺入方向は“内臓に向けない”

特に季肋下・下腹部は、角度が臓器へ直進しやすい。
→ 外斜刺・横刺を基本とし、吸気時に操作するのが安全。


6️⃣ 臓器と経穴の対応関係(鍼灸視点のマップ)

臓器経絡・代表経穴解剖的関連臨床的効果
足の陽明胃経(中脘・梁門・足三里)胃体〜幽門部消化促進・胃下垂改善
足の厥陰肝経(期門・太衝)右季肋下・胆嚢近接肝気鬱結・右肩痛
足の太陰脾経(章門・血海)左腹側後部消化吸収・血液生成
足の少陰腎経(腎兪・志室・太渓)後腹膜冷え・疲労・ホルモン調整
手の少陰心経(巨闕・神門)前縦隔中央動悸・精神安定
手の太陰肺経(中府・肺兪)胸郭上部呼吸循環調整

まとめ

胸腹部の内臓配置と腹膜構造を理解することは、鍼灸師にとって安全で精度の高い施術の第一歩です。
臓器は単なる「中身」ではなく、呼吸・姿勢・血流・筋膜の動きと連動し、日々位置を変化させています。
臓器の位置を正確にイメージできることは、
・深刺事故の防止
・ツボの立体的理解
・経絡走行の裏付け
のすべてに直結します。

さらに、臓器の理解は安全のためだけでなく、施術の質を高めるための感覚訓練にもなります。
たとえば、胃や肝の位置を意識して手技を行うことで、腹部の緊張や内臓下垂、消化不良に対してより的確なアプローチが可能になります。
今後の臨床において、鍼灸師は「皮下の解剖」だけでなく「臓器の地図」を頭に描きながら施術することが求められます。
次回は、臓器理解の第一歩として「胃と膵臓の構造・位置・支配神経」を詳しく取り上げ、臨床とのつながりを解説します。

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