鍼灸院のヒヤリハットは、「いつ・どこで・何が起きたか」「どう気づき、対応したか」を事実として記録し、背景と再発防止策を別に整理します。対策には担当者・実施期限・確認日を付け、実行後も見直すことが大切です。患者に異常がある場合は、報告書の作成より安全確保と必要な医療対応を優先します。
この記事では、鍼灸師が院内で使える記録のひな形と、架空の記入例を紹介します。特定の提出様式や法的な報告義務を示すものではなく、施設の体制に合わせて使う実務上の提案です。
ヒヤリハットとインシデントの関係
全日本鍼灸学会の「鍼灸安全対策ガイドライン2025年版」では、患者に人的・経済的損害を生じなかったものの、当事者がヒヤリとした出来事をインシデントとし、ヒヤリハットやニアミスも同じ意味で扱っています。用語の範囲は報告先によって異なるため、院内で使う定義を決めておきましょう。
「被害がなかったから残さない」とすると、危険が生じた場面を振り返れません。たとえば、別の患者の記録を開いたことに施術前に気づいた、担当交代時に置鍼の情報が伝わっていないことを確認できた、といった場面も検討の対象になります。これらは説明用の例であり、当サイトが集計した事故データではありません。
記録より先に患者の安全を確認する
まず患者の状態と、現在も危険が残っていないかを確認します。異常があるのに「ヒヤリハットで済んだ」と決めつけないでください。同ガイドラインは、重篤な有害事象では医療機関への受診を勧め、緊急性がある場合は直ちに救急搬送を要請するよう示しています。必要な対応を遅らせてまで報告書を完成させる必要はありません。
安全を確保した後、責任者への連絡、患者への説明、経過の記録を施設の手順に沿って進めます。原因がまだ分からない段階では、確認できた出来事と現在の対応を伝え、推測を確定した原因として説明しないようにします。
ヒヤリハット報告書の記入項目
以下は院内用のひな形です。学会の指定書式ではありません。短くても、後から状況と対応をたどれる内容にします。
- 1.発生日時・発見日時・場所
- 発生した時刻と気づいた時刻を分けます。不明な時刻は推測で埋めず「不明」とします。
- 2.予定していた作業
- 施術準備、体位変換、抜鍼、担当交代など、何をしていた場面かを書きます。
- 3.確認できた出来事
- 行動と順序を具体的に記します。「不注意だった」だけでは状況が分からないため、観察した事実と後から考えた理由を分けます。
- 4.患者の状態・実際の影響
- 確認した状態、本人の訴え、確認者を記します。確認していないことを「異常なし」と書かないようにします。
- 5.発見のきっかけと直後の対応
- 誰が何を確認して気づいたか、中止・再確認・連絡・説明などの対応と時刻を残します。
- 6.背景と、まだ分からない点
- 作業の中断、似た表示、引き継ぎ方法、物品の配置などを検討します。分からない点は、誰が何を確認するかも記します。
- 7.対策・担当者・期限・確認日
- 何を変えるのか、誰がいつまでに行うのか、その後いつ確かめるのかを決めます。
患者の経過を記す施術録と、院内の改善を検討する報告書は、目的を分けて管理しましょう。必要な関連付けはできるようにしつつ、共有する相手に必要な範囲の情報に絞ります。
記入例と確認ポイント:担当交代時の情報不足
以下は架空の事例です。実際の患者や施設の記録ではありません。
- 場面:置鍼中に担当が交代した。
- 事実:引き継ぎを受けた施術者が、置鍼部位と本数の記録を確認できなかった。体位を変える前に作業を止め、前の担当者と使用記録・身体の状態を再確認した。
- 影響:患者の訴えと状態を確認し、その内容を別途記録する。「問題なかった」の一言で省略しない。
- 背景の検討:交代時の引き継ぎ項目が決まっていたか、追加・抜去した鍼の記録を更新できていたかを確認する。
- 対策案:交代時に「置鍼部位・現在の本数・途中の変更」を記録とともに確認する手順を試す。作成担当と試行開始日、振り返り日を決める。
具体的な抜鍼時の確認は、鍼の抜き忘れを防ぐ本数確認と担当交代時のチェックで説明しています。ヒヤリハットの記録は、実際の安全確認を置き換えるものではありません。
「気をつける」で終わらせない再発防止
同ガイドラインは、アクシデント・インシデントを報告書にまとめ、原因と予防策を検討し、スタッフ間で共有することを推奨しています。WHOも、報告を学習につなげることと、報告データから結論を出す際の慎重さを重視しています。
院内では、次のように改善を具体化する方法が考えられます。
- 事実をそろえる:記録や当事者の説明を確かめ、確認できた点と未確認の点を分ける。
- 作業の仕組みを見る:個人の注意だけでなく、情報の表示、確認する時点、役割分担、中断後の再開方法を点検する。
- 小さく試す:確認欄を加える、物品の置き場所を分けるなど、実行できる対策を選ぶ。
- 実行と結果を確かめる:担当者・期限・確認日を決め、手順が使われたか、使いにくい点がないかを振り返る。
報告件数が減ったことだけで、安全性が高まったとは判断できません。報告しづらくなった可能性もあるため、件数に加えて、同じ場面の再発、対策の実施状況、報告のしやすさを確認しましょう。
一人の鍼灸院でも続けられる共有と管理
一人で運営する場合も、記録と振り返りの日を決める方法が考えられます。事例が増えたら「準備」「施術中」「終了時」「引き継ぎ」などの場面別に整理すると、繰り返し起きる課題を見つけやすくなります。
複数人の施設では、個人を責めるだけの振り返りにせず、次の担当者が同じ状況で迷わない手順を考えます。WHOの研修報告でも、責めない報告文化と機密性が、報告を促すための要素として挙げられています。学習のための共有と、個別の説明・責任への対応はそれぞれ丁寧に行います。
報告書には個人情報が含まれ得ます。保管場所と閲覧できる人を決め、私用のチャットや公開SNSに患者を特定できる情報を載せないようにします。外部研修などで使う場合は、院内共有とは別に利用目的と個人情報の扱いを確認してください。
よくある質問
ヒヤリハット報告書を作れば、カルテへの記載は不要ですか?
患者の状態、対応、説明、経過など、施術録に必要な情報も記録します。院内改善用の報告書を作ったことだけで、患者ごとの経過記録を省略しないようにします。
すべてのヒヤリハットを外部へ報告する義務がありますか?
この記事は外部報告義務を一律に定めるものではありません。事例の内容、関係法令、保険契約、所属組織の手順に応じて確認します。院内での記録・共有と、外部への報告は分けて考えてください。
参考情報
- 全日本鍼灸学会臨床情報部安全性委員会:鍼灸安全対策ガイドライン2025年版(改訂第2版)(関連用語の定義、リスクマネジメント、施術録の記載・個人情報の保護)
- WHO:Patient safety incident reporting and learning systems: technical report and guidance(2020年)
- WHO:Training on patient safety incident reporting and learning systems in Maldives(2022年)
資料確認日:2026年10月3日。記録ひな形・架空事例・改善の進め方は、これらの考え方を参考にした実務上の提案です。事故の発生率や対策の効果を示すデータではありません。






